父の命日が近いので書いてみるかな。ここまで書いていいのかってくらいに書いた。ちょっとダークな内容なので閲覧注意!

父が受けた宣告

父がガンの宣告を受けた日は穏やかだった。本人はそれほどショックを受けていないように見えたが、あまりに大きすぎるショックに対応しきれなかったのだと今になって思う。息子の前では決して弱い姿は見せない父だった。仕事も続けることになり、病状もそれほど深刻ではないようだった。「幸いにも治りやすいタイプのガンで、手術すれば完治する」父の口から何度も聞いた言葉だ。

実家には父と母と僕の三人で暮らしていた。姉は嫁いでいたが、甥っ子を連れてよく遊びに来た。子供を嬉しそうにあやす父は少年のようだった。

僕が幼稚園の頃に一時期、父はトラックの長距離運転手をやっていた。しばらくぶりに父が帰ってくることを母から聞かされた。「今日は少し遅くまで起きていなさい」たまに会う父は――おそらくいつも僕の寝顔を見ていただろうけど――僕にとっては「どこかのおじさん」という距離感があって、久しぶりに会うと少し恥ずかしかった。
ある日、戦車のラジコンを買って来てくれた。それは組み立て式のラジコンだったので、箱を空けてすぐには遊べなかった。細かい部品を目の前にして、父と子の会話は止まった。
今すぐにでも仮眠をとって次の日の仕事に備えたかっただろうが、父は徹夜で戦車のラジコンを作ってくれた。翌朝見せてもらったら、ところどころセメダインがはみ出していたり、細かい部品が取れていてどこか不格好だったし、触ったら色んな部品が取れた。ボディは黒いビニールテープでくっつけてあった。不器用な父だった。

ドロップアウト生活から這い上がる

僕が反抗期を迎えてからは、父とはまともに話をしたことは無かった。同時に学校が大嫌いになり、高校にはほとんど行かなくなった。近くの神社で本を読んだり弁当を食べたり、自転車でうろうろしたりして過ごした。夜に担任から電話が掛かってくるかも知れないので、家の電話の着信音は切っておいた。大事な電話もあっただろう。高校3年間、補講をうけてなんとか進級して卒業した。担任の先生にはお世話になった。

デザインの仕事をしたい想いだけはずっと変わらず、デザイン系の専門学校に行った。同じ興味をもった濃い仲間たちと出会った。しかし学校嫌いは変わらなかった。
進級制作で奨励賞というのをもらった。生まれて初めての、まともな賞かも知れない。
専門学校は義務教育ではないので、容赦ない決断をされる。出席日数が足りない僕は、専門学校を中退することになった。

どん底と思っていた床がある日突然抜け落ちる、何度も何度も抜け落ちる、ドロップアウト生活は底なし沼だった。

その頃ずっとバイトしていた居酒屋のマスターの奥さんにかなり無理を言って、東京でデザイン関係の仕事をしている方を紹介してもらった。フリーランスのアートディレクターだった。昔気質の人で、デザインの本質的なことを多く教わった。「デザイン作業がDTPと呼ばれてデジタル化される前の手作業の時代でも、1mmの間に線を10本は引けたのだ。1mmの中にこそデザインの本質がある」何度も聞かされた。
伝えたい言葉が伝わるために、言葉を選ぶことがある。それと同じで、デザインはコミュニケーションだ。

全く実務経験の無い僕に「正直がっかりした」と全否定されたりもした。今の自分に何が足りないかも分からなくて悔しかった。21歳の時に一人で東京に出て来たので同世代の友達もほとんどおらず、孤独で寂しかった。なんの光も見えないまま手探りで歩く道に不安を感じたが、迷いは無かった。その時間の全てをデザインに注ぎ込んだ。1年間でデザイナーとしての作業は一通り出来るようになった。

1年間の修行を積ませてもらった後、制作会社を紹介してもらった。そこには同世代の人や、内部/外部問わず各分野のプロがいた。クリエイティブディレクター、アートディレクター、Webディレクター、プロデューサー、プランナー、カメラマン、スタイリスト、コーディネーター、イラストレーター、コピーライター、プロジェクトマネージャー、コーダー、フラッシャー、プログラマー、オペレーター、そしてデザイナー。出会った全ての人から刺激を受けた。

プロは必ずどこか振り切っているものだ。誰かが用意した型に収まるのを嫌がる。しかしビジネスというレールから外れてしまっては自己満足のアートにしかならない。レールから脱線しないで自分のやりたいこともやり、結果を出す。その人にしか出来ないことをその人がやる、プロの存在価値はそこにあると思った。

かなり早い段階のうちに自分の中で答えを出せないと、この実力主義の業界では生き残っては行けない。外ではなく自分の中に戦う相手を見つけること。かなり人間としてコアな部分に触れる仕事なのだと思う。

母から震えた声での電話

東京でデザインの仕事を始めて4年が経とうとしていた頃、母から電話があった。
「お父さんの体調が良くないから、いつでも帰ってこれる準備をしておきなさい」
父がガンの摘出手術をしてから5年たった頃だった。父が親戚の葬儀に兄弟数人で向かうことになり、無理をして一人で長距離を運転したため体にガタが来たらしい。次の電話までは長くはなかった。
「お父さんが緊急入院することになった。今すぐ帰ってきて」
会社のみんなに話をし、富山に向かった。

父は手術を終えて眠っていた。気道を確保するために喉に穴が空けられており、父は声が出ない状態だった。父からのコミュニケーションは、ジェスチャーと筆談だった。その時は気が付かなかったが不思議なことが起こっていた。父のちょっとした仕草や表情で、考えていることが分かった。目があって、時間を知りたいのだとわかり、僕は「○時だよ」と伝えた。父は「ああそうか」という表情をした。「仕事は順調か?」父が目で伝えた。「ああ、順調順調、大丈夫」と答えた。父は「ああそうか」という表情をした。
なぜだろう? 声が出ない父と会話をしている僕がいた。

僕は医師と二人っきりになり、「お父さんはこのゴールデンウイークがヤマです」と宣告された。その後、自分の荷物を取りに父の病室に向かった。父は「検査の結果はどうだったのか?」とボードに書いた。僕は「まだすぐには分からないみたいだよ」そう言って病院を出た。

このことを伝えた母から「これで喪服を買ってきなさい」とお金の入った封筒をもらった。父が生きているうちに喪服を買いに行った。

一旦東京に帰る事情が出来たため、切符を買って改札を抜けようとした。その直前で電話が鳴った。「すぐに病院に来て」泣き声の母だった。急いでタクシーに乗り込み、病院の入口に着いた。仕事を抜けてきた姉とバッタリ会った。病室の父は心臓マッサージで生死を行き来していた。母がしっかりと握った手を僕に向けた。父の手は大きくて硬かった。そして冷たかった。

——医師は腕時計を見た。

母と姉は泣いてばかりいた。僕がこの二人を支えてあげないといけない。決して二人の前では悲しい素振りを見せてはいけない。全てが落ち着いてから一人でゆっくり泣こうと決めた。居酒屋のバイトで覚えた料理を作ってあげた。実家で料理をするのは初めてだったので驚いていた。家族が減ったことで連帯感が強まったように思う。
一ヶ月かけて手続きを終えた。人が死ぬとこんなにもたくさんの手続きが必要なのだと知った。同時に、父は確かに生きていたのだと実感した。
そして僕は、自分が泣くタイミングを逃した。

父の死に隠れていたもの

法事で親戚が集まった。父の兄、つまり叔父さんはお経を読めるようになっていた。弟の死の辛さからか、お寺に通っていたらしい。仏教が人の死の受け皿となり、叔父さんを救ったのだろう。

父の死後、人の死と意識について深く考えた。
父と話してみたかったことがたくさんあった。確かめたいこともあった。父との色んな思い出があり、ありがとうと言いたかったし、ごめんなさいと言いたかった。この後悔をどこに向ければいいのだろうかと苦しんだ。父が霊となって隣に座っているのだと思わないと生きていけないくらい辛すぎた。しかし僕は見たこともない霊の存在を信じてはいない。

僕は父の分身であり、父は僕の分身だ。顔が似ているのだから性格も似ているのだろう。答えは自分の中にあるのだと悟った。父の考えていたことは僕の中にあるのだと分かった。そうすると多くのことが解けた。病室で父に検査の結果を聞かれた時に、僕は「まだすぐには分からないみたいだよ」と答えたが、父は分かっていただろう。父もまた、僕の言動なんてお見通しだったはずなのだ。長い長い夜だったと思う。

法事が終わった後、叔父さんに呼ばれた。
「息子には言わないでくれと口止めされていたんだけどな、俺は言わなきゃいけないと思う」
空気が凍った。

僕の家は、決して貧乏ではなかったが、それほど裕福な家庭でもなかった。父が6年前に僕を東京に送り出してくれた時の話になった。家電や引っ越し費用などでかなりのお金が掛かった。
「そのお金はどこから出たか知ってるか?」
僕は「知らない」と答えた。

父はガン保険に入っており、ガンの宣告を受けたときにわずかながら保険金が下りていたようだ。そのお金をどうしようか、叔父さんに話していたとのことだった。
「自分が飲むための抗がん剤に充てるか、息子を東京に送り出すための費用に充てるか」
——心が割れた。

僕はまだ父のことを知り尽くしてはいなかった。父は僕のために早死にし、命を掛けて東京に送り出してくれたのだ。それを、父が死んだ後に聞かされた。
一人残された母のことを考えて悩んだりもしたが、僕は東京で生活を続けることを選んだ。

将来、自分の家族を絶対にお金で困らせたりしないようにと誓った。必要なお金を稼ぐことの出来る男になろうと誓った。そして、会社員で居続ける理由が無くなった。

2003年8月
父の死から三ヶ月後、フリーランスとして独立した。

【追記】
うちのおかん64回目のHappy Birthday!(まだだけど)

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