歴史って面白いよね!というお話です。

渋谷センター街の入口に「大盛堂(たいせいどう)書店」という本屋さんがあります。けっこう大きめの看板なのですぐに目に飛び込んできます。
»大盛堂書店 店舗情報・地図

扱っている雑誌などは渋谷らしい感じのラインナップで、ごく普通の本屋さんです。

【注意】この記事を読み終える頃には、大盛堂書店に対する価値観が完全に変わります!

大盛堂書店の代表取締役会長だった人のプロフィールです。

舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 – 2006年2月11日)は、日本陸軍の軍人、大盛堂書店代表取締役会長。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。

軍人さんだった弘は、アンガウル戦の当時23歳でした。

3日目には、弘も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやく頼みの軍医がやって来るも、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して去ってしまったという。

戦中に大けがを負い、軍医にもサジを投げられてしまいました。

しかし、瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。

生まれつき傷が治りやすい体質だったようです。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、弘は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。

しかしこの頃の弘の体はというと

負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。

そしてついに飛び込みます。

弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

そして

米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。

弘、敗れました。

このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。

忘れてはいけません。弘は生まれつき傷が治りやすい体質です。

しかし、弘は3日後米軍野戦病院で蘇生する。

そして伝説を作ります。

当初弘は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。弘の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。

ここからです。

瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。

弘は不死身です。

1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。

この時の注釈が2つあります。1つは

実際、この時弘の体調は死の瀬戸際にあり、極度の栄養失調と失血により、両目はほとんど見えない状態にまでなっていた。

もう1つは

爆破後は元来た道を辿って収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加している。このため、大々的な捜査にも拘らず、最後まで弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明せず、米軍記録には”原因不明の爆発”による損失としか記されてはいない。

戦争が終わりました。

故郷では、当然弘は戦死したものと思われており、弘が故郷に帰って一番初めに行なったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことであったという。

大盛堂書店へと繋がります。

戦後復興の中、戦争での強烈な体験から弘は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へと繋がった。

»舩坂弘 – Wikipedia

今度渋谷に行ったときに立ち寄ってみるといいと思うです。

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