未来から現代を引き寄せたい

美術館でのお話

この部屋の中心にはスクリーンが吊るされている。四角い部屋を対角線にそって分割するように、大きなスクリーンが広がる。映画館にも似た暗い部屋には、映像と音声が流れている。数人分のイスがあるが、立ってスクリーンを見つめる人も多い。そのことが部屋の入口からよく見えるので、満員だとあきらめて素通りしていく人もいる。

僕はスクリーンの裏面に向かってみた。すると、そこに映像が流れていることにも驚いたが、いままでとはまったく違う映像に頭を揺さぶられた。音声は同じなのに、スクリーンの裏面で別の映像が流れているとは想像もしなかった。そんな僕の表情をみて、みんな不思議そうな顔をしている。しばらく注目を浴びたあと、ふたたびみんなはスクリーンに目を戻した。多くの人はこれまで通りのスクリーンを見続けたが、何人かはこちら側にやってきた。

僕はこれまでも同様の行動をとってきた。奇をてらうことを第一に考えているわけではない。自分の感性を信じて行動をしている。動いた人、動かなかった人、部屋を素通りした人、僕、それぞれが異なる体験をした。

常に未来の存在を意識して生きている。SFのパラレルワールドのように、さまざまな選択によって常に未来が変わり続けているのかもしれない。人それぞれの未来が無数にあるのかもしれない。知識や経験は、団体ではなく「個」の中に蓄積されていく。けれど、すべてがつながっていて、一見関係のないものでも相互に影響を与えあっている。それらを紡いで束ねて集合知になって、それがまた個の力と共鳴していく。

もしも「未来」とはそういうものだとするならば、より良い未来に進めるように、「描いた未来」から「現代」を引き寄せたい。未来はとても明るくて希望に満ち溢れているものだ。スクリーンの裏面にはそんな映像が流れていた。

インターネットやデバイスは生活に溶けていく

デジタルデータは体験に結びついた時に価値を得る

パソコンやスマートフォンなどのデバイスは、まだ生活に溶けてはいない。それらが生活に溶けていくことで、「それそのものから、それを行う」ことが可能になると思う。スクリーンというのは現代のデバイスのあり方に依存しているものだ。映像は平面スクリーンを飛び出して、空間に映し出されるようになる。そうするとユーザーインターフェイスも投影される映像の中に溶けていく。

ネットやデバイスが生活に溶けるように、なくなる職業や新しい職業もあると思う。未来のシステムというのは、必要のない単純再生産を止めるものであり、より自分らしく生きられるようになる方法であってほしい。そのために、学ぶことや考えることを止めてはいけない。何かを学ぶには、純度の高いものに触れることが近道だと思う。何かを考えるには、純度の高い場所にいることが必要だと思う。

デジタルデータはライフスタイルという時間軸に沿って流れている。未来も現代も、「ネット」と「リアル」はどちらも「リアル」だ。デジタルデータは、体験に結びついた時に価値を得て「リアル」になる。体験こそが価値であるため、サービスの競合はライフスタイルの変化そのものだ。答えは常に目の前の環境の中にある。探す旅にでるのではなく、すでにその環境の中を泳いでいるのだ。

「未来の姿」と、そこに向かうために必要な「近未来の姿」

常に自分の箱の外郭を壊し続けること

アナログとデジタルは相対するものではない。デジタルが進化することで、よりアナログに近づいていって、ついにはアナログに帰還するのだと思う。紙とペンが進化して、最終的にまた紙とペンのようなデバイスになるイメージだ。

「紙とペン」など、物のイメージはその人の過去の記憶から補完される。たとえばスーパーで売られている生肉を見て美味しそうに感じたのは、過去にパックされた生肉を調理して食べた時の味をイメージとして覚えているからだ。記憶はいま目の前にあるものの価値を大きく変えることがある。一方で「夕日のイメージ」といっても、楽しい/悲しい、オレンジ/紫など、人それぞれのイメージがある。ブランドとは、こちら側が発しているものではなく、相手がイメージを膨らませて受け取っているものだ。ブランドのセンスとは、無意識の領域での会話だと思う。

茹でガエルの実験というたとえ話がある。熱湯にカエルを入れるとびっくりしてすぐに飛び出すが、冷たい水の中にカエルを入れて、それを徐々に温めて沸騰するまで放っておくと、カエルは茹で上がって死んでしまうというお話。大きな変化には気が付きやすいけれど、小さな変化はその過程でマヒしてしまうということだ。常に自分の箱の外郭を壊し続けることは大切だと思う。

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