社員教育というお話で、主・師・親の三徳の話を聞かせていただきました。

主・師・親の三徳

  • 主 仏如来は三界はみなこれ我が有として、この世を治めるから「主」である
  • 師 仏如来は一切衆生を教え導くから「師」である
  • 親 仏如来は一切衆生はみな我が子なりと憐れむから「親」である

»三徳 (仏教) – Wikipedia

主・師・親の三徳は仏教から来ており、そのうちの徳が社員教育に重要な徳だと。まずは見本を見せることから始めないと社員は育たないし、自分が見本を見せられないのに社員ができるようになるわけがない。良くある失敗は、「社員に仕事を任せたいので、何でも自由にやっていいと言い聞かせている」これでは失敗の連続が筋なのです。正しい道(見本)を示して、それで失敗したら部下の代わりに頭を下げる。その姿、つまり親の姿を見て育っていくものだ、というお話。――だったと思います。

こういった道徳教育を、昔は寺子屋などで行っていたみたいですが、果たして現在はどのような形で見られるかというと、新渡戸稲造が書いた武士道ですね。ここはサラッと読める「武士道 (まんがで読破)」を元に、武士道をまとめておきたいと思います。

武士道

「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」からなる道徳。

当時の食事は一汁一菜が基本の質素なもので、多くの使用人をかかえる武士屋敷でも献立にさほど違いはなかった。武士たちにとって贅沢は人格に悪影響を与えるもっとも恐れるべきものだと考えられていた。

刀は武士の魂、たとえ飢え死にしても売るわけにはいかない。武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。幼少のころから刀の使い方を教えられる。まずは木刀から始まり、15歳で元服すると真剣を携帯しての行動を許される。その時彼が自覚するのは自尊心と、危険な凶器を往来で持ち歩くことに対する責任感である。

人間としての正しい道、正義を指すものであり、武士道のもっとも厳格な徳目である。

時は戦国時代。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は当時の有力な戦国大名だった。両者はともに天下統一を目指しぶつかりあうライバルである。そしてもうひとり、上杉謙信と同じく武田信玄と対立していた今川氏真は、武田領内へ商人が往来するルートを断った。1567年の塩留めである。領土に海のない甲斐国では死活問題である。苦しむ信玄にある日、謙信から手紙が届いた。

「私が信玄殿と戦っているのは弓矢の上であって、米や塩で戦っているわけではない。今後塩が必要ならわが国から供給しましょう」

敵に塩を送る。この諺は義を重んじる上杉謙信のエピソードが元になったとされる。

義は体に例えるなら骨である。骨がなければ首も正しく胴体の上につかず手も足も動かない。つまり、たとえ才能や学問があったとしても、義の精神がなければ、武士ではない。

武士にとってお金などは二の次である。打算や損得から離れ、自分が正しいと信じる道を貫くことが武士の正しい姿とされた。武士はとにかく銭勘定を嫌った。銭勘定はつまり損得を追求する行為だからである。だから商売は商人たちにまかせて、上位の身分である武士たちは人々の模範となる生き方を追求した。

打算や損得を超越し、自分が正しいと信じる道を貫く。武士道の中心となる良心の掟、これが義の精神である。

勇とは、義を貫くための勇気のこと。勇気といっても、わざと危険を冒して討ち死にすれば単なる犬死にである。武士道ではこれを匹夫の勇と呼びさげすんだ。

勇気とは恐れるべきこととそうでないことがわかることだ。—-哲学者プラトン
本当の勇気とは生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬことである。—-徳川光圀

武士は幼少のころから匹夫の勇と、真の勇気「大勇」の区別を学ぶ。冬の寒空の中肉体をさらさせたり、処刑場の恐ろしい光景を見に行かせた。

武士にとって犬死にはつまらない行為だが、自分が間違いないと思うことに対してはためらうことなく命をかけて戦わなければならなかった。勇をまっとうするためには肉体的強さが不可欠なのだ。義の精神をいくら机の上で学んでも、自分より強い暴漢に怯えて実行できなければ無意味である。武士たちは精神修行と同時に肉体を鍛えた。文と武の両立、つまり文武両道を追求していた。

義をみてざるは勇なきなり。勇とは勇気、正義を敢然と貫く実行力である。

仁とは、人としての思いやり、他者への憐れみの心のこと。
武士の情けには、仁の精神が内在している。弱き者や負けた者を見捨てない心、高潔で厳格な義と勇を男性的な徳とするならば、仁は女性的なやさしさ、母のような徳。

義に過ぐれば堅くなる、仁に過ぐれば弱くなる。—-伊達政宗
仁の力を疑うものは、薪についた大火を茶碗一杯の水で消せなかったと言って、水で火は消せなかったと思うようなものである。—-孟子

他者への思いやりを忘れてはならない。仁の精神は、人の上に立つ者の必須項目である。

仁の精神を育て、他者の気持ちを尊重することから生まれる謙虚さがつまり礼の根源である。

礼とは他者に対する優しさを型として表したものである。日本では古来よりお辞儀の仕方、歩き方など、きめ細かな規範がつくられかつ学ばれていた。食事の作法は学問となり、茶の湯は儀式を越え芸術となった。茶の湯の作法は初心者にとって退屈なものだが、この定められた方法が結局時間と手間を省く最上の方法であることを発見する。礼儀作法はさまざまな流派が存在しているが、心で肉体をコントロールし心を磨くという点において目的はひとつである。

度をすぎた礼はもはやまやかしである。—-伊達政宗

礼の作法も、気持ちがこもっていなければ型をなぞっただけの、わざとらしいものになるということだ。

「つまらないものですが…」
贈り物をするとき日本人がその品物の値打ちを軽く表現することに対して、アメリカ人は強い違和感を感じるようだ。

贈り物をするときのアメリカ人の論理はこうである。
この品物は素晴らしいものです。そうでなければあなたにあげられません。粗末なものをあげるなんて、あなたに対して失礼ですからね。

これに対して、日本人の論理はこうである。
あなたは立派なかたです。私の気持ちを受け取ってください。この程度の品を最高のものだと言ったら、立派なあなたに失礼ですが。

アメリカ人は贈り物そのものに心を向けているのに対し、日本人は贈る気持ちのほうに心を向けている。相手を思う気持ちは共通しているのだ。

誠とは文字通り、言ったことを成すこと。「武士に二言なし」という言葉は、武士道の徳目のひとつ、誠から生まれた。武士にとってウソをつくことやごまかしは、臆病な行為とみなされた。武士たちは銭勘定を嫌い、誠の精神に基づき証文さえもつくらない。

士農工商、この身分制度は、知恵ある序列だった。
貴族を商業からしめ出すことは、権力者に富を集中さえないためのすばらしい政策である。—-モンテスキュー

富の道が名誉の道ではない、侍たちはそれを知って名誉の道にこだわった。

名誉

侍の妻たちは立派だった。金よりも名誉を重んじる夫のために、笠や提灯作りの内職で家計を支えた。女は武士の主君に対する忠義心と同じくらいの思いで家を守り、身を清く保った。それを内助の功という。

名誉の観念は外聞や面目などの言葉で表されるが、裏を返せばすべて「恥」を知ることである。
「恥ずかしいことをするな」「対面を汚すな」「人に笑われるぞ」
武士の間では羞恥心を知ることを幼少の教育においてまずはじめに行われた。

恥は道徳意識の基本であり、武士道における名誉とは、人としての美学を追究するための基本の徳である。

しかし侍は恥を恐れるあまり、病的ないきすぎに陥ることもあった。
取るに足らないことに腹をたてることこそ、武士にとって恥ずかしい行為である。

人の一生は重荷を負って行くが如し 急ぐべからず 堪忍は無事長久の基
己を責めて人を責むべからず。—-徳川家康

負けるが勝ちという言葉がある。
私は人を殺すのが嫌いで、ひとりも殺したことがないよ。人に斬られてもこちらは斬らぬという覚悟だった。なに蚤や虱だと思えばいいのさ。チクリチクリと刺してもただ痒いだけだ。生命に関わりはしないよ。—-勝海舟

戦わずして勝つ、血を見ない勝利こそ最善の勝利。武士の究極の理想は平和である。

武士道の名誉とは、名を尊び、自分に恥じない高潔な生き方を貫くことである。武士たちはどう美しく死ぬかを追求したが、それは同時になんのために生きるか、という哲学に帰着する。

忠義

これまでの徳目は儒教思想に基づいたもので、あらゆる階級の人々にもあてはまるが、これは武士唯一の特殊な徳目。

忠義とは主君に対する絶対的な従順のことである。一見その本質は日本の封建社会が生み出した政治理念にも見えるが、共通の考え方が海外にもあった。

個人は国を担う国家の一部として生まれてくるのだ。—-アリストテレス
あなたは今まで国家に生まれて教育されてきたのに、自分が国家の家来ではないと国家に向かって言えるのか。—-ソクラテス

西洋の個人主義においては主君に対して個人と別々の利害が認められているが、武士道において個人・家族そして広くは組織・国家の利害は一体のものである。

主君の命令は絶対だったが、武士は主君の奴隷ではなかった。主君の間違った考えに対して本物の武士たちは命をかけて己の気持ちを訴えた。忠義とは強制ではなく、自発的なものである。武士たちはあくまで己の正義に値するものに対して忠義を誓ったのだ。

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